2019-09-11

・S・ジジェクイデオロギーの崇高な対象』の精神分析的(あるいはヘーゲル的?)主体論(「<現実界>のどの主体か?」「実体としてだけでなく主体としても」)。ジジェクラカンポスト構造主義者との差異を強調する(彼がポスト構造主義者として想定しているのは主にデリダである)。ラカンデリダの間で争点となるのは主に「盗まれた手紙」についてであるが、この議論はこの二人だけでなく、アルチュセールなども含めて、それぞれの議論を総合的に検証しなければならないので、比較は他日に期す(東浩紀存在論的、郵便的』にかなり突っ込んだ議論がある)。精神分析主体では、常にその主体が所属する共同体との関係が問われることになる。それによると、主体に対して論理的に先行する、(その主体にとってどうすることもできない)非合理な「強制された選択」がある。そしてジジェクがここで引き合いに出すのは、シェリングの「無時間的選択」という概念であり、ラカンの言う<現実界>とぴったり重なりあうというのである。

・「主体は「<現実界>の応答」である。」この一文が、精神分析的な主体を理解する際にカギになるように思われる。ジジェクの本は、話がどんどん横滑りしていくため、主題を見失わないように辛抱強く読んでいかなければならない。とりあえず重要そうなところは拾っておく。《どのような主体の概念だったら、この<現実界>の逆説的性格と両立しうるのか。ラカンのいう主体の基本特徴は、もちろんそれがシニフィアンにおいて疎外されるということである。根源的に外的な意味作用のネットワークに囚われるやいなや、主体は制圧され、寸断され、分裂させられる。》

シニフィアンの主体とはまさしくこの欠如であり、「自分自身の」ものとなるようなシニフィアンが見つからないという不可能性である。おのれを表象できないことが、主体のポジティヴな条件なのである。主体は意味作用的表象によってみずからを表現しようとする。だが表象は失敗する。豊富さの代わりに欠如があり、失敗によって空けられたこの穴こそが、シニフィアンの主体である。》

《主体とは、大文字の<他者>―象徴的秩序―が発した問いに対する、<現実界>からの応答である。問いを発しているのは主体ではない。主体は、<他者>の問いに答えられないという不可能性の空無である。》

《それは私の内部にある異物であり、「私の中にあって私以上のもの」であり、根源的に内部にあると同時にすでに外部にある。ラカンはそれのために新語をつくった。外密extimeである。(…)それは私の中の、具体化も支配もできない本質的対象である。この対象に関するラカンの公式はもちろん<対象a>である。それは主体の一番のかくしんにある<現実界>の点であり、絶対に象徴化されることなく、あらゆる意味作用的操作の残滓・遺物として生み出される。それは恐ろしい享楽jouissanceを具現化する固い核であり、したがって、われわれを惹きつけると同時にはね除ける対象であり、われわれの欲望を分割し、それによって恥ずかしさを掻き立てる。》

《主体は、自分の中の対象に対する主体自身の分割・分裂を通じて構成される。この対象―外傷的核―は、われわれがすでに「死の欲動」―外傷的不均衡、根こそぎの次元―と名付けた次元である。人間そのものは「死にとりつかれた自然」であり、死を招く<物>に魅惑されて、レールを踏み外すのである。》

木村敏やレインなどの現象学的精神医学との比較検討が必要だろう。ただ、感触としてはそこまで距離は遠くないと思われる。またこのジジェクの線引きを通して、松本卓也の『人はみな妄想する』を読み直すことも必要だろう。

・後半から、カントとヘーゲルの話へと移っていく。ドイツ観念論に対する知識が希薄なため(特にヘーゲルに対する)、わからないところは多い。カントの<物自体>の議論に対する批判とともに、再び主体について論じられる箇所。《主体(意識)はカーテンの向こうにある秘密に触れたい。だが彼の努力は失敗する。なぜなら、カーテンの向こうには何もなく、あるのは主体という無だけである。この厳密な意味において、らかんにおいてもまた(シニフィアンの)主体と(幻想―)対象とは相関しており、同一ですらある。主体は空無であり、<他者>における穴であり、対象とはその空無を満たしている不動の内容である。したがって主体の全「存在」は、彼の空無を埋めている幻想―対象の中にある。》 

・「真の行為は行為に先立つ」の議論は、先のシェリングの「無時間的選択」や<現実界>などの概念と接続されるだろう。《真の行為はきわめて象徴的な性質をもっており、われわれは自分の干渉を可能にするために世界を構造化して知覚するが、どのように構造化して知覚するか、そこにこそ真の行為があるのだ。このように真の行為は(特定の現実的な)行為に先立つ。われわれは、後にわれわれの(特定の現実的な)行為が刻印されることになる象徴的宇宙をあらかじめ再構造化する。その再構造化の中にこそ真の行為があるのだ。》

・ファルスのシニフィアンについて。《「男根経験」の中身はまさしくこの「矛盾」である。すべては私しだいであるにもかかわらず私には何もできない。そしてここから、すなわち「すべて」と「無」の間を行き来するものとしての男根の概念から、われわれは、与えられた現実を措定された現実へと変換する形式的行為の「男根的」次元を捉えることができる。この行為が「男根的」であるのは、それが全能(「すべては私しだいだ」。主体はすべての現実を自分の作品として措定する)と、全的不能(「だが、それにもかかわらず私には何もできない」。主体は公式的には与えられたものしか引き受けられない)との一致点だからである。この意味で男根は「超越的シニフィアン」である。》